崇徳 天皇。 崇徳天皇~史上最強の怨霊と守護神~(日本史・平安時代)

😗 崇徳上皇 ( すとくじょうこう )=怨霊のイメージは相当定着してしまったようで、中世以降の創作の中(例:『 雨月物語 ( うげつものがたり )』)でも怨霊のモチーフとして 崇徳上皇 ( すとくじょうこう )は頻繁に描かれることになります。

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☎ さて、この乱に勝利したのは 後白河天皇 ( ごしらかわてんのう )。

🤞 重仁親王の生母である兵衛佐殿は身分が低すぎ、かつ体仁親王の立太子後の誕生であったために、重仁親王は崇徳天皇在位中は皇位継承の候補者には成りえなかった。

🤘 だが、染みのが訳を聞けばそれはであり、どうやら参詣帰りに落とし物の錦紗を届けたにぞっこん惚れ込んだというのである。 第39代 (671? 鎮座地 東山通安井一筋上がる、如月小路を西へ二筋、突き当たる万寿小路、祇園花見小路甲部歌舞錬場(GION corner)の裏(東側)の楠の巨木の元に御廟はあります。 崇徳上皇は罪人として扱われていた為朝廷は葬儀を行いませんでした。

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☝ 経緯を妻に話せば、妻は「がその崇徳院のを詠めばいい」と助言をくれた。 日本三大怨霊 ( にほんさんだいおんりょう )と言えば 平将門 ( たいらのまさかえど ) 菅原道真 ( すがわらのみちざね ) そしてこの 崇徳天皇 ( すとくてんのう )( 崇徳上皇 ( すとくじょうこう )・ 崇徳院 ( すとくいん ))とされています。 清新な叙景歌に特徴があり、崇徳上皇の感性が伺えます。

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🤟 崇徳天皇 ( すとくてんのう )はこの 白河天皇 ( しらかわてんのう )の子とされる逸話(真偽不明)があり、父親の 鳥羽上皇 ( とばじょうこう )からは疎まれていました。 1126年1月22日 -• ただし、それごときで上皇の怨霊がおとなしく引き下がるはずもなかった。 顕末の墓は 菊塚と呼ばれ、鼓岡神社のすぐ近くにあります。

☝ 祭礼日 毎月21日には崇徳天皇の月命日として月次祭を白峯神宮の神職が奉仕し、祇園の女将さんを始め崇敬の思い篤き方々も参列されて月次祭が斎行されます。 さらに、昭和天皇は 崇徳院 ( すとくいん )が 崩御 ( ほうぎょ )して八百年目にあたる昭和39年(1964年)に、 香川県坂出市 ( かがわけんさかいでし )の 崇徳天皇陵 ( すとくてんのうりょう )に 勅使 ( ちょくし )を遣わして 式年祭 ( しきねんさい )を執り行わせています。 この時点で候補は3人 ・重仁親王 崇徳上皇の子ども ・雅仁親王 鳥羽法皇の子ども ・守仁親王 雅仁の子ども 雅仁は今様に没頭しており鳥羽法皇からも 「即位の器量ではない」と言われていました。

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😙 なお『 保元物語 ( ほうげんものがたり )』ではそのまま天狗になったと言う話ですが『 今鏡 ( いまかがみ )』では、逆に恨みを持って亡くなったと言う話は残されていません。

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